TOPインタビュー「人と自転車の‟接点”を増やしたい」 元五輪代表・藤田晃三さんが語る自転車人生第二の夢

Interview インタビュー

「人と自転車の‟接点”を増やしたい」 元五輪代表・藤田晃三さんが語る自転車人生第二の夢

藤田晃三(ふじた・こうぞう)
 1967年11月21日生まれ。岩手県花巻市出身。1986年ブリヂストンサイクルに自転車選手として入社、国内大会を中心に多くの優勝を重ね、日本代表として1992年バルセロナオリンピックをはじめ数々の国際レースに参戦。2000年にプロ選手としての活動から一線を引き引退するも、2003年よりヒルクライムレースを中心にレースに参戦しMt.富士、草津、鳥海山、赤城山、夏油高原などで優勝。現在はブリヂストンサイクルのスポーツブランド「ANCHOR」の営業マンとして業務を遂行する傍ら全国各地のヒルクライムレースのゲストを務めるなど、自転車文化の発展の為、精力的に活動している。

―自転車競技を始めたのは高校からとのことですが、そのきっかけは?

 10歳離れた兄が自転車競技部だったこともあって、ロードバイクが自分にとって身近な存在でした。中学時代は軟式テニス部に所属していましたが、高校ではテニス部がなかったので、何をしようか考えているうちに、中学時代のテニス部の先輩が高校で立ち上げた自転車同好会を部に昇格させたいからということで、人集めの要員としていきました。

 その当時は中野浩一さんが世界選10連覇を果たしたり、競輪が花形の時代でした。おりしもスーパーカーブームで、兄の友人で競輪選手になった人たちがそういうクルマを乗り回している姿に憧れて、自分もそうなりたいと思って人の倍の量を練習したら、ロードの選手になっちゃったという(笑)。短距離系は全く伸びず、インターハイではトラックのポイントレース等の長距離種目で上位入賞するようになっていきました。

 高校卒業後、1986年に当時ブリヂストンサイクルレーシングチーム(現チームブリヂストンサイクリング)に加わり、1988年のソウル五輪を目標に本格的なチーム強化がスタートしました。

―そして1992年のバルセロナ五輪で藤田さんがロードレースで代表の座を勝ち取りましたが、これは「誰も予想できなかった結果」だったとか。

 前年に開催されたプレ五輪に出ていましたし、前年の世界選にも出ていたので順当といえば順当だったと思います。ただ練習中の落車で負傷してしまっていたので、代表選考会となる全日本選手権ロードレースへは練習量を制限しながら臨むことになりました。

―ご自身も半ばあきらめていたのですか?

 それが、駄目だとは思わなかったんです。レース本番を迎えたときも「なんとかなるさ」という楽観的な気持ちでいました。私が思うに、選手が大成する上で一番重要なのはプラス思考に考えること。凡人は練習しないと勝てないけれど、天才は練習しなくても勝てるという「思い込み効果」とでもいいますか。はっきりいって自分勝手な思い込みでしたけれど(笑)。

 当時は国際ロードレース(現ツアー・オブ・ジャパン)で同じチームの鈴木光広さんが総合優勝していました。その後の日本代表選考会だったので、チームの期待は鈴木さんが一身に背負っていました。僕はケガもしていたので、周囲は「まあ頑張れよ」程度。スタート前に監督からも「光広のこと頼んだぞ」と言われました。

 当時、自分も勝ちたいという思いはありましたが、仕事と割り切って前半からずっと逃げ集団に乗って走っていました。しかし、鈴木さんは落車した挙句、パンクもして大きく遅れをとってしまいました。残っているチームメイトは遅れた鈴木さんを上げようとしていましたが、僕は前の方で監視役として走っていたのでそのことは知らず、吸収された時点でチームメイトが集団にいないことを知りました。

 それで「もう誰も行けない」という状況に。気づいたら沿道から鈴木さんが「藤田頼んだぞー!」と叫んでいて、「俺かい!」みたいな展開でした(笑)。結果的には3位でゴールし、3つある代表枠の一つを獲得できたときは、個人的な嬉しさというよりもチームとしての目標を達成したことに、まずはほっとしましたね。

1992年のバルセロナ五輪にロード代表として出場を決めた藤田さん

―ご自身にとって五輪出場の経験はどのようなものでしたか?

 選手としていえば世界選と変わりませんが、周りの注目度は全く違います。とくに引退後、トップアスリートだったということが説明しやすい。例えば、フランスの高いカテゴリーのステージレース「パリ~コレーズ」で総合優勝を果たした清水都貴(元チームブリヂストン・アンカー)は、選手時代の実力で比べたら私より全然上ですが、日本では一般的に海外のステージレースはあまり知られていません。一方で五輪は子供からお年寄りまで知っている大舞台なので、そこでの活躍は世間に認知されやすい。その大きな違いを感じます。

バルセロナ五輪でロードレースを走る藤田さん
84位でフィニッシュした藤田さん

 

引退後は「日本最速のサラリーマン」に

―2000年の現役引退後3年を経て、再び「日本最速のサラリーマン」として競技の世界に復帰されましたが、何か心境の変化等があったのですか?

 現役引退後も自転車にはちょこちょこと乗ってはいましたが、レース活動からは離れていました。割と上の方まで行った選手は、引退後は市民レースでも競技に復帰しない人の方が多いと思います。

2000年の引退レースで家族と一緒に(写真左から2番目が藤田さん)

 上のレベルまで行った選手は、いつまでも周囲から「走れる」と思われているんですよね。自転車競技は「技」の競技でなく「体力」の競技なので、練習をやめたら走れなくなる。ですから私も現役引退後にヒルクライムレースにたくさん出ていましたが、身体が仕上がってないときはエントリーしていても出場しませんでした。元選手のプライドです。

 とくにヒルクライムの場合は完全に結果が見える。今だとパワーメーターでFTPを見ながら上っている人が多いですが、それによってレースで戦えるレベルが数値化される。だから、勝負できるレベルかそうでないかが行く前にわかる。そんなときに行って結果がだめだったとき、終わったあと「今日どうしたんですか?」とずっと絡まれちゃうんです(笑)。

―多くの元選手が行こうとしない中で、藤田さんはなぜ市民レースの場に?

 市民レースというよりはヒルクライムだったからです。そこで「アスリートごっこ」をしていました。引退後3年ほどが経ったところでトレーニングとパフォーマンスアップの関係性を科学的に検証できる時代が到来し、そこで自分の身体で実践して検証してみたいと思ったのです。

 やはりレースから離れていた分、復帰した当初は筋肉・体力が落ちていましたが、落ちたところから上げていくのは楽しい。さらにその変化を数値化して可視化できる。自分の戦闘力を数値化して見ることができ、そしてやればやった分上がっていくのが楽しかったですし、それによって大会に出た自分のレベルというのがわかるのがとてもおもしろかったですね。

 ただ、体重を落とすのが大変でした(笑)。今は60kgを超えていますが、当時は53kgまで落としていました。出力が上がっていくのも限界があって、ある程度のところまでいくと足踏み状態になるので、やはり人それぞれ持ってる能力があるのだと思います。

 結局そこからパワーウェイトレシオ(出力重量比)を上げていくために自分の体重と機材を軽量化するんです。機材の軽量化はマニアな世界に入ってしまいますが、一番効果があるのは自分の体重を減らすこと。その集大成としてレースで成績を納める感じでした。

―最近のレース活動は?

 45歳を過ぎてから毎年ずっと出ているのは「日本スポーツマスターズ」のトラック競技です。私はヒルクライムのイメージが強いと思いますが、本気でやっているのは実はトラックなんです。バルセロナ五輪はロードレースで代表になりましたが、ロードもトラックも両方やっていて、アジア選手権でトラック代表になったりもしました。

 ただ、30台後半~40代前半にスポーツマスターズに出場したら周囲から文句いわれるかもしれないと思って(笑)、引退から10年以上経過したところで、もうそろそろいいかなと思って出場することにしました。

―それでも出場されると圧倒的に勝ってしまいませんか?

 いや、それが全部勝ってるわけではないんです。TTはほぼ勝っているんですが、ポイントレースは圧倒的に負けてる方が多い。必ず優勝候補になるので、どうしても周りのマークが厳しいんです。

 びっくりするのが僕が負けたときの相手の喜びようで、大のオトナが大喜びして涙を流すんです。ヒルクライムのときもそうでしたが、私が2位や3位の表彰台にいると、勝った人が「ステイタスが上がる」というんです。ただの優勝じゃなくて、藤田に勝った優勝だと。そこまでいわれると負け甲斐がありますね(笑)。

 参加者としてだけでなく、イベントのアドバイザーとして関わったものもあります。榛名山ヒルクライム(通称:ハルヒル)はアドバイザーとして関わりました。関東近辺で東京からだと日帰りできてしまう場所なので、参加者に宿泊してもらうためにTT(タイムトライアル)とヒルクライムをセットにして2日間開催にしようとアドバイスしたりもしました。

―そういう意味では、現役を退いてからも付き合い方を変えて自転車と共にいる感じですね。

 世界を体験した同輩の中には、次世代の選手育成の道を選ぶ人もいましたが、私は一般の人たちに趣味として自転車を楽しんでもらえるようサポートをする道を選びました。底辺が広がらないとピラミッドの頂点は大きくなっていかないので、まずは日本でスポーツとしての自転車をポピュラーにしたいという思いがあります。自転車はラン等と違い、“接点”がないとなかなか始めることができないので、その接点を増やすことが重要なことだと思っています。

 40代を過ぎてから自転車を始める人が多いのですが、その人たちが「もっと早く知っていればよかった」と言うのをよく聞きます。いままでの生活の中になかった一つのスパイスのようなものが生まれる。職業も年齢も違う人たちが仲間になり、一つのクラブを経験する。自転車にはそういった和が生まれる可能性が、他のスポーツよりもあるんじゃないかと思います。

 ブリヂストンサイクルの一員として、ホノルルセンチュリーライド、ツール・ド・おきなわツアーを企画して、さまざまなレベル、志向のサイクリストをサポートしてきましたが、改めていま「自転車の楽しみ方」の奥深さを感じています。自転車を販売する企業の仕事の一つとして、自転車のあるライフスタイルや遊び方の提案をしていければと思っています。

ブリヂストンサイクルが企画したホノルルセンチュリーライドツアーで。最盛期には全国から120人ものサイクリストが参加した

―藤田さんから見たら、自転車を取り巻く環境はだいぶ変化してきたのではないでしょうか。

 自転車を使って遊ぶ背景がだいぶ変わりましたね。僕が現役だった20年前、当時のサイクリストの目標はレースでした。というか、レースしかありませんでした。それがいまはヒルクライムに加えてロングライド系のイベントも増えて、さらにもっと多様なサイクリングイベントも登場しています。

 自転車という道具を使った楽しみ方が人それぞれに合わせて変化しています。一生懸命乗ってる人しか参加できないイベントだけでなく、週末ちょっと楽しんで乗ってる人でも参加できるようなイベントが増えているのは良いことだと思います。

2019年の「じろで庄内」に後輩の田代恭崇さん(写真左)らとともにゲストライダーとして参加した藤田さん(中央後方)

―藤田さんが目指す理想像に近づいているという印象でしょうか?

 たくさんの選択肢を選べるということは、それだけ多くの人が楽しめる土壌ができているということ。最近はサイクルツーリズムも増えてきていますね。自転車も「グラベルロード」という車種が登場して、使い方、楽しみ方がだいぶ多様化してきました。

 キャンプツーリングに関してもランドナーで前後に荷物を搭載して旅するスタイルは昔からありましたが、いまのアウトドアブームの中で手軽なところで旅を楽しむ人も増えて幅が広がっている印象です。

―このコロナ禍において、公共交通機関を使ってわざわざ遠くへ行かずとも、新しい発見ができるのも自転車の魅力だと思います。

 いわゆる“ママチャリ”といわれる軽快車は多くの場合、買い物や通勤・通学の足として使われます。移動しても3~5kmの範囲。その“枠”は見えないが、ある。まずそれを取っ払うことが自転車の楽しみに気付く突破口なんだろうと思います。

 ある程度のスポーツバイクならビギナーでも50km程度は簡単に走ることができます。自宅から片道25kmくらい離れると日常とは違う景色が広がると思います。例え都心でも、いままで駅単位だった距離感が自分の中で変化していくのを感じられると思います。

―道路での走行環境も十分とはいえませんが、変化を遂げています。

 ブルーラインが整備された道路が増え、そういった点で走りやすい道路が多くなってきていることは確かです。ただ、一方でそれは自転車側も交通ルールやマナーをしっかり守らなければならない社会になっているということです。

一般市民に向けて、元五輪選手として自転車の安全利用を呼びかける藤田さん

 このコロナ禍で自転車通勤をする人が増えていると言われていますが、そういうきっかけも含め、自転車との“接点”が増えています。楽しさだけでなく、安全面を含めて自転車の乗り方を啓蒙していくことも、我々が今後積極的に関わっていかなければならない部分だと思っています。

取材日: 2020年8月5日