パリ五輪自転車競技マウンテンバイク(MTB)クロスカントリー(XCO)日本代表として2024年の夏、初めてのオリンピック出場を果たした川口うらら選手(24)。幼い頃「家の近所に自転車に乗れる環境があったから」という理由で始めたMTBで、世界へと羽ばたきました。厳しい出場権争いや様々な不安に苛まれながら迎えた初の舞台でしたが、レース本番では「これまでに体験したことがないほどの感動を得た」そうです。あれから一年近く経った今、五輪出場をめぐる当時の心境について聞きました。
※マウンテンバイククロスカントリー:起伏のある山岳、丘陵地帯に設定された周回コースを走り、順位を競うMTBの競技


兵庫県たつの市出身。TEAM TATSUNO所属。2017年、2018年とMTBアジア選手権ジュニア女子で優勝し2連覇を達成。2020年全日本自転車競技選手権大会・女子U23 XCO、XCE優勝。2024年のパリ五輪出場を果たしたいま、2028年のロサンゼルス五輪ではMTB、ロードの両種目での出場を目指す
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兵庫県の菖蒲谷森林公園。全国的にも有名なそうめんの生産地として知られるたつの市の北部にある公園内にはMTBのコースがあり、現在では「龍野マウンテンバイク協会」主催のイベントとしてXCO競技の国内最高峰シリーズである「Coupe du Japon」も開催されています。この龍野マウンテンバイク協会の代表の娘さんと同級生だった川口選手は、地元での遊びの一環としてごく自然にMTBと出会ったそうです。
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今思えば地元にMTBに乗れる環境があったことは大きかったですね。しかも家からすぐのところに。それがなかったら続けることはできなかったでしょう。小学6年生の時に一度MTBが嫌になり、中学校ではバスケ部に入ってほぼ自転車に乗ってないような時期もありましたが、高校生になって「もう一回自転車やってみようかな」という気持ちが芽生えました。
当時はそんなに本気でやるつもりなかったのですが、やっていくうちに成績も残り始めて。高校2年生の時にアジア選手権で優勝し、そこから次第に国際レースも視野に入れて本気でやっていこうと思うようになりました。
嬉しさと不安の2カ月間
─そこから日本のXCO競技者として切磋琢磨して、パリで初めての五輪代表に選出されました。東京大会からパリ大会まで時間があまりない中で、五輪代表はどのように決まったのですか?
2023年のアジア選手権で優勝しなければ日本にパリ五輪の出場枠は無い、という状態でした。もう一人の代表候補だった小林あか里選手も一緒にそこを狙っていましたが、結果は惨敗。トップ5は全員中国人選手が占め、圧倒的に負ける形となりました。
それで可能性はゼロになったかのように見えましたが、他の国の順位次第では日本にもチャンスがあるという状況になりました。それでもし日本に枠が回ってきた場合、 その時点でUCIランキングが日本人でトップじゃないと選ばれないということで、ほんの少しの可能性に賭けて3月、4月とオランダ、スペインへポイントを取りに行きました。
─結果的に日本に枠が回ってきました。結構ギリギリのタイミングでしたよね
本当にギリギリで(笑) 、5月末に決まったので開催までもう2カ月しかありませんでした。
─代表に選出された時の気持ちは?
正直に言うと、オリンピックで結果を残すための準備がしっかりできていたわけではなく、出るための準備をするだけで精一杯でした。嬉しい気持ちも当然ありましたが、それよりも不安があったし、これからの2カ月をどう過ごしていこうかと考えていました。日本代表となったことで、周りからの目線とか捉えられ方や接し方が、自分が思っていた以上にずいぶん変わってしまったようで…。どう対応したらいいか分からないというか、そんな思いもありました。

─オリンピックまでの2カ月間はどのように過ごしましたか?
しばらく海外のレースを走っていなかったので6月にスイスで開催されたワールドカップに出場しましたけど、ボロボロでしたね(笑)。
当初はパリ五輪に行けると思ってなかったので、次のロサンゼルス五輪に向けて2024年は経験の年にしようと思っていました。1月からタイ合宿行ってみたり、3月はベトナムに行ったり、オランダ、スペインでは今後の拠点探しもしていました。なので、五輪に向けてフィジカルが最高の状態に仕上がっていたかといえば、そうではないことは自分でも分かっていました。とはいえ、もう出場が決まったのなら仕方ないですよね。その時点で私に協力してくれる人を集めて、五輪に向けてどうしたら良いかを相談しました。
─パリ直前に開催された全日本選手権では2位という結果でしたね
大きなレースの前に、良かった時・悪かった時のイメージと両方するようにしています。悪かった時をイメージする場合、レースが終わった後のことも考えます。「レース後にどんな自分でいようか」とか、「これ聞かれたらどうやって答えようかな」とか。そこまで考えておけばメンタルが崩壊することがないので、全日本の時もそこまで事前に考えていました。例え2位で終わっても、オリンピックまで強い気持ちを持って突き進んでいこうと。
だけど正直きつかったですね。五輪の日本代表選手なのに全日本2位だったことに対する周囲からの同情の目というか…。自分の中では絶対に強気で行こうという気持ちでいましたが、パリに行くまでは精神的にきつかったです。
「自分はいま、トップで走ってるのかなって」
─色々あって迎えた五輪、現地に行った感想は?
それがもう、めっちゃ良かったんです! 開会式に参加したとき、日本で感じていたような周囲の目を気にすることがなくなり、ようやく純粋に楽しめる心境になりました。「もうあとはやるしかないし、自分も選手の一員でいいんだ」って。オリンピックの服を着て、「自分は日本代表で良いのだ」と強く思いました。以来、気持ちもすっきりして、試走も自分なりに考えながら取り組むことができました。
中でも最高だと思ったのはレース本番を走ったときです。結果だけを見たら決して良い走りとはいえませんが、観客の皆さんが1位の選手と同じ熱量で自分を応援してくれていました。オリンピック選手というだけでリスペクトの歓声がすごくて、「うわー!」って言葉にできない感じでした。自分の順位を忘れて「自分はいまトップで走ってるのかな」と思ってしまうほど。レースを走っただけで感動しました。この感覚は自分の中に素晴らしく、いまも心に印象深く残っています。

─レース以降、ご本人のコメントが出てこず、気になっていたファンもいたと思います
当時の想いを例えばSNS等に書いたとしても、「伝わらないのでは?」と思ってしまう自分がいました。考えすぎかもしれないですけど、オリンピック後は気持ちを書くことが難しかったですね。でも自分の中でメンタルは全然崩れていなかったし、走り終わった後も観客の方々からすごい歓声で「お疲れ様!」と自分のことを真正面から見てくれたので、とてもポジティブな気持ちで終わることができました。
結果だけ見たら全然ダメでしたが、「もう一度走って結果を残したい」と強く思いました。今回の経験を踏まえ、2028年に向けてじっくりと結果を残していくことで、パリ五輪に出場した意味を証明していくしかないと思っています。
この経験を次のロス五輪へ
─次のロス五輪も目指して行くということですね?
今回の経験を絶対に次に生かさないと、と強く思っています。競技者としてこのままでは終われないって。オリンピックってやっぱり出てみなければ分からないし、走った感覚だけじゃなくて、選ばれた時にどんな気持ちになって、どんな風に調整していくのか等、今回色々と学んで感じることができました。それはもう、次のオリンピックや世界選手権なりで生かさないと苦しんだ意味がないのだと思います。
─小学生の頃からここ菖蒲谷森林公園で走ってきて、このインタビューも今、ここで聞いています。7月には全日本選手権もここで開催されます。今「TEAM TATSUNO」として走っていますが、たつの市との関わり、生まれた土地の名前で走る今のチーム環境を教えてください

自分の活動がまず、そのたつの市にある企業とのつながりで成り立っています。全てたつの市の企業で、2019年からずいぶん長い間、応援してもらっています。たつの市の「ふるさと親善大使」にも任命していただき、山本実市長もすごい熱意で応援してくださっています。オリンピック日本代表となったことも喜んでいただけて、壮行会も開いて下さいました。小中高とすべての母校でお話をする機会もいただいたり、素晴らしい環境でレース活動ができていることに感謝しています。
私の走りや活動を通じて、たつの市の皆さんが笑顔になったり、次の世代の選手に夢を与えられたら嬉しいですし、それが自分にできる恩返しなのだろうと思います。そして、この菖蒲谷には走り応えのあるトレイルがたくさんあることを、地元の方々だけでなく全国のMTB愛好家の皆さんにも知っていただき、走りにきてほしいと思っています。
(聞き手・中川裕之)