2021.6.1
─自転車競技を始めたきっかけを教えてください
兄が元々、自転車競技に打ち込んでおり、インターハイでも2位と活躍していたことから、我が家でもロードレースは身近なスポーツでした。私も中学時代から遊びで100kmほど走ることが普通でしたし、高校入学を機にロードレースを始めました。
強豪校の学校法人石川高等学校の自転車競技部でキャリアがスタートしたのですが、無我夢中にまるで何かに取り憑かれたかのように練習しましたね。見えない何かから逃れたかった一心なのかもしれません。競技を始める前は学力も体力も平々凡々。決して自分に目立つものはありませんでしたが、がむしゃらに努力した結果、結果がついてきたし自信が生まれました。その成功体験はいまだに私の基盤になっていると思います。
─学生時代とプロ選手時代の違いとはどのようなものでしたか
高校時代は言われたままにメニューをこなしてきましたが、プロ選手になってからは自分で練習方法を考え、実施しなければなりません。当時は指導法も今ほど確立していなかったですし、プロの指導者も周りにいなかった。しかし、高校の時に成功した体験に基づく考えが私にはありました。その中で切磋琢磨した結果、レースでの成績が向上しました。
プロ時代の私はとにかく勝利にこだわっていました。なので、当時最先端のトレーニング機器はいち早く取り入れていました。例えば心拍計です。以前は心拍計とパワーの負荷の相関は確立されていませんでしたが、少しでも競技力が向上するようにと勉強しながら使っていました。
また、ビンディングペダルも世に出回ってから、国内ではかなり早い段階で使い始めたと思います。これには理由があって、当時、激しい冬の練習を繰り返した結果、足の霜焼けが酷くなり、シューズとペダルを固定するクリップバンドを締められなくなってしまいました。そこで、当社の社員がアメリカですぐに購入し、慌てて導入したことを覚えています。少しでもアドバンテージになるものはどんどん取り入れて行きました。練習方法の違いはあれど、自転車競技に取り組む姿勢は学生もプロもさほど変わっていないのかもしれません。
─オリンピック選考にかけた意気込みやエピソードを教えてください
最初に五輪の選手候補に名前が挙がったのは1984年のロサンゼルス大会の時でした。でも、当時は五輪を目標に走っていたわけではありませんでした。
選考大会以前、先輩が読んでいた海外の自転車雑誌にツール・ド・フランスの一場面が載っていたのですが、そこには、沿道を埋め尽くす観客をかき分けるように、選手たちが山を懸命に上っている光景がありました。私には「何がそこまで観客を熱中させるのだろうか」と疑問が湧き上がったと同時に「あの場所を走ってみたい」という激しい衝動に駆られました。海外の情報が乏しかった時代なので、強烈に脳裏に焼きついています。
欧州の自転車文化に取り憑かれた私は、日本代表になるべく練習を重ねました。当時は欧州のチームに所属するのは難しく、欧州のレースを走るには日本代表チームに選出されるしか手立てがなかったんです。
そんな最中、ロス五輪の代表選考会と位置付けられていた全日本選手権に出場し、優勝したら周囲が一気に盛り上がった。マスコミが実家にも押し寄せました。しかし、結果は選考会が2度、3度と開かれ、まさかの代表落ち。周囲の期待に応えられず、非常に悔しい思いをしました。
─ソウル五輪大会に向けてはどのような心境で臨んだのでしょうか
自分も会社も選考会にかける意気込みが違いました。フランス人コーチが就き、その年の春にフランスで合宿も組んだり、パリ〜ニースにも出場して127位で完走を果たしたりしました。結果、選考レースでも苦戦しながらも3位に潜り込み、3枠ある代表の切符をもぎ取ることができました。
まずはほっとした、一つ責務を果たしたという安堵感が広がっていました。一方、アジア戦や世界戦は毎年出ていたのですが、一度も結果を残せていませんでしたので、ソウルでは10位以内に入るという明確な目標がありましたし、それがプレッシャーになっていました。安堵と重圧が入り乱れた心情だったと思います。
レース当日、スタート前に緊張で震えていたのを覚えています。私はレース前日は眠れないほど次の日のレース展開のシミュレーションを行い、勝つためのストーリーを組み立て、レースではそれをやり切るという気持ちでレースに臨んでいましたし、結果も積み重ねてきましたので、五輪でも同じように臨むつもりでしたが、本番は違いましたね。
周囲には成績を出してきなさいという人は一人もいませんでした。会社からも「もう代表になったんだから、あとは楽しんでくればいい」とまで言われました。しかし、何がなんでも結果を勝ち取り、応援してくれる家族や会社関係者、ファンの期待に応えたかった。
レースが始まると、確かな手応えを感じました。「いけるかもしれない」と。結果は第2集団でフィニッシュして25位。他の選手からゴール間際に妨害があり、悔しい思いもしましたが、レースが終わった時には「人生でこれ以上清々しい思いはない」と感じたほど気持ちが良かったです。勝利や結果を第一と考えて競技に取り組んできましたが、五輪を走った後は、やり切った充実感に満たされていました。
─引退後のお仕事は何をされていましたか
チームに所属しながらも、会社ではクロモリフレームの開発に関わる部署で競輪のフレームを作っていました。五輪出場の前後ではテストライダーも担っていました。
31歳の競技引退後はスポーツ車の商品企画に従事しましたが、「名前が通っているから営業部にいきなさい」と異動に。当時立ち上がったブランド「アンカー」を広めるべく、西日本地区を単身で市場開拓しました。以前は販売店リストがなかったため、自分でプロショップを探したものです。同じ年代の店員さんは自分のことを覚えてくれているし、随分経歴が力になりました。店舗の住所や電話番号のリストは当時ありませんでしたので、私がまとめました。現在の当社のデーターベースの元になっていると思いますよ。
─サイクルロードレースの魅力とは何でしょうか
生涯スポーツであることが一番ではないでしょうか。実は3年前、優勝してやろうとトレーニングを重ねてツール・ド・おきなわに出場したのですが、実際は完走がいっぱいいっぱいでした。他の出場者が抜き際に「鈴木さんでしょ?」と声をかけてきたりしましたが「鈴木はこんなに遅くない」と答えました(笑)。
何歳になっても練習しながら風を感じてリフレッシュできるし、長時間運動できるので生活習慣病予防にもいい。私自身もサイクリングだけでなく、プライベートでは乗り方を他人に教えたり、安全講習を行ったり、自転車全般を楽しんでいます。五輪という大きな目標を達成し、余裕が出てから本当に自転車が好きになりました。
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