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Interview インタビュー

渡欧30年のフォトグラファー・砂田弓弦が語る、自転車レースのとてつもない高揚感

砂田弓弦(すなだ ゆづる)
1961年9月7日、富山市生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、1989年から自転車競技の取材・撮影に携わっている。現在は世界のメジャーレースでオートバイに乗っての撮影を許されている数少ないフォトグラファーの一人となっている。イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、日本など、多くの国のメディアに写真を提供している。日本では雑誌『チクリッシモ』(2006年創刊、八重洲出版)の監修も務めている。
著書に『フォト! フォト! フォト!』(未知谷。同年に競輪広報大賞特別賞受賞)、『挑戦するフォトグラファー』(未知谷)など多数。

—いつからスポーツ自転車に乗り始めましたか?

 小学生のときに、近所の人から泥除け付きのドロップハンドルの自転車をもらって乗っていました。当時はフラッシャー(方向指示器)付きの自転車が流行って大ブームになっていたし、自転車が嫌いな子はいませんでしたね。

 次に思い出すのは高校1年生のときのこと。家の前を通った競輪選手の姿を見て「なんてかっこいい自転車なんだ」と憧れて、自分の自転車の泥除けを外して真似ごとみたいなことをしていました。ほどなくして、高校1年生のときにハイテンフレーム(ハイテンション鋼のフレーム)の自転車をローンで買いました。アルバイトをして返そうと思っていましたが、父親から「そんなに好きなら払ってやるよ」と言われて、払ってもらったのを覚えています。

—高校生の頃から自転車競技をやっていたのですか?

 競技として取り組んでいたのはスキーでした。スキーは小学生のときからやっていて、中学で県内2位になって、全国大会にも出場しました。高校も名門スキー部のある学校に進学しましたが、2年生のときに怪我をしてしまいました。その間も自転車には乗れたので、ますます自転車にはまってしまったわけです。スキーとは違って、練習した分だけ自分に跳ね返ってくるのも性に合っていました。肝心のスキーの成績は振るわずに、スポーツ推薦ではなく一般受験で法政大学に進学しました。

—大学に入ってから自転車とはどう関わったのでしょうか?

 東京にある自転車ショップの「なるしまフレンド」に入り浸っていました。学校へ行くのは必要最低限で、空いた時間はすべて自転車に乗っていました。大学生になってからレースにも参加するようになりました。

—欧州に行こうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

 欧州によく行っていた、なるしまフレンドの店員から「言っちゃ悪いけど、君たちがやっているのは自転車レースじゃない」と言われて、一度、本物を見てみたいと思ったのがきっかけです。大学4年生になっても就職活動は一切しませんでした。実家の家業を継ぐことになっていたのもあって、卒業後1年間、イタリアに行くことにしました。

—イタリアに行くのは大変でしたか?

 当時は何の情報もない時代でした。今のようにインターネットでは調べられません。本もないし、誰に聞いていいのかもわかりませんでした。何もかも行き当たりばったりですよ。イタリアへ行くのに、イタリア語ではなく英語を勉強していたくらいです。先々どう転ぶかわからない旅なので、オールマイティな言語を選んだのでしょうね。

 大変だったのはイタリアに行っても同じでした。レースに出ようとしたら、イタリアの協会が発行するライセンスがないとダメだと言われて、国際ライセンスを見せても何の役にも立ちませんでした。そうしたこともわからなかったわけです。

—フォトグラファーになったきっかけは何だったのでしょうか?

 父親の趣味が登山で、山の写真も撮っていました。僕は小学生の頃からそんな父親の一眼レフのカメラに親しんでいました。それが仕事に結びついたわけですが、自転車に関われる仕事なら何でもよかったのが本音です。

 1985年にイタリアから帰国して、自転車専門誌の『ニューサイクリング』から記事を書いてみないかと声がかかり、13回の連載記事を書きました。連載が始まるとマガジンハウスの副編集長の目に留まり、写真付きのコラムを執筆する仕事をもらいました。原稿料がとても良かったのですが、当時はバブルで、マガジンハウスの仕事は業界最高水準の原稿料だったというだけで、大きな勘違いをしていましたね。

—家業は引き継いだのですか?

 日本に戻り、家業に携わったものの、自分には合いませんでした。そのことを父親は残念がっていましたけど、つつましい生活ながら、自転車に関われそうだったので、もう一度イタリアに行こうと考えました。

 1989年にワープロとカメラを持って、再びイタリアに降り立ち、1992年には結婚しました。まだまだ、収入は低かったのですが、自転車の仕事をするという目的に変わりありません。ただ、日本の仕事だけでは有名にはなれないし、欧州で名前が載る仕事をしないとダメだなとは思っていました。

 そんなある日のこと、レース会場に行って、仲良くなったメディアの人から「(車で移動して撮影するのではなく)あなたはなぜオートバイに乗って写真を撮らないのか。オートバイに乗らないと、写真が撮れないじゃないか」と言われました。オートバイに乗っての撮影は人数が限られます。今では1レースで12台しか走れません。そうなるまでは時間がかかりましたが、海外のフォトエージェンシーから仕事をもらったり、欧州の自転車雑誌にも写真が載ったりするようになりました。

—欧州で自分の手掛けた仕事が認められるには何が必要ですか?

 日本人なら誰でも王貞治さんや長嶋茂雄さんを知っていますよね。日本人の野球観の根底にはこの2人が必ずいて、今話題の選手が中心にはならないと思います。イタリアでは、ファウスト・コッピ、ジーノ・バルタリが国民的英雄です。葬儀が国葬になるほどで、有名な選手は通りに名前がついたりもします。

 そうした自転車の文化・歴史を理解したうえで、自転車レースを生で見て、取材を重ねていくことは重要です。誰が勝ったか、負けたかを報じるだけではなく、イタリアの社会における自転車文化の位置づけや文化そのものを理解して仕事をすることが重要だと思います。取材が社交の場にもなっているので、そうした歴史を知っていなければならないのです。オートバイのフォトグラファーになれたのは、そうした部分があったのではないかと思います。

—レース全体の動きは見えているのでしょうか?

 ヘリコプターからの映像もあるのでテレビ観戦者が一番わかっていると思います。対して僕らは選手との距離が誰よりも近く、選手の息遣い、匂い、観客や選手の声が伝わってくるので、自転車レースの立体的な情報を得ています。

—オートバイへの指示はどうしているのでしょうか?

 1レースにつき12台のオートバイしか走れないので、特定集団の前に複数台が位置取りした場合は、ローテーションしていきます。そのため、タイミングに恵まれずに撮り逃すことも多いです。もちろん、オートバイには「道路の左に行ってくれ、センターに寄ってくれ」といった指示は出しますよ。

 ただ12台のオートバイは常に同じ位置で固まっているわけではありません。集団後方に下がっていたり、どこかで風景写真を撮っていたり、選手が壁になって前に上がれなかったりして、いろいろなところにオートバイがいます。

—ドライバーは専属なのでしょうか?

 専業の人は少なくて普段は別の仕事をしています。レースのときだけやってくるという人が多いですね。ちなみに、僕が毎回お願いするのは大体同じ人です。国別に片手で足りるほどの人数でしょうか。

—レース中はどんなことを考えていますか?

 集団がのんびりと走っているときは「夕食は何を食べようかな」「熱いシャワーを浴びたいな」と考えていたりします。レース距離が200kmあってもアドレナリンが出るような時間は本当に短いですね。

 けれども、レースで熱くなる場面で選手の横にオートバイで横づけして写真が撮れるのは、何物にも代えがたいですね。2018年ロード世界選手権王者のアレハンドロ・バルベルデ選手のような世界の一流選手数人が山岳ですごい戦いを繰り広げ、沿道には大勢の人が興奮しながら応援していて、上空にはヘリコプターが飛び回り、その映像は世界200カ国にライブ中継されている。世界が注目している集団の真ん前に自分がいて写真が撮れる。その高揚感はとてつもないです。あれは特等席ですよ。だから、この仕事をやめられないですね。

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