2023.5.1
1993年生まれ。2014年から2019年までイタリア籍自転車ロードレースチームNIPPOに所属し、専属メカニックとして海外経験を積む。専属メカニック時代は世界三大レースの1つ、ジロ・デ・イタリアにも参戦するなど世界各国で様々なレースに帯同。2020年より“自転車の洗車専門店”という肩書きを持ったラバッジョ(イタリア語で洗車場の意)を立ち上げるに至る。
この人の記事一覧へ─そもそも、いつ自転車を好きになったのでしょうか。
「あなたはお腹から出てきた瞬間から車が好きだった」と言われるぐらい、小さい頃から車が大好きでした。当然、車の運転はできませんが同じ車輪がついた三輪車に夢中に。保育園の先生に「三輪車競争」というオリジナルの競技を作ってもらうほど、大好きでした。その後は自然と自転車に乗るようになり、父親とマウンテンバイクでサイクリングにも出掛けていましたね。
─ロードバイクに乗り始めたのはいつですか?
高校1年生の時です。「公立高校に受かったらロードバイクを買ってやる」と父に言われ、必死に勉強したのちに無事合格。ロードバイクを手に入れることができました。
当時は、ロードバイク=レースというイメージがあったので、まずはクラブチームに所属しました。早速レースに出場したところ、初めてのレースで優勝したんです。下位カテゴリーだったものの周りを見ると速そうな人ばかり。まさか勝てるとは思いませんでした。
─鹿屋体育大学には一般受験で入学されたそうですね。
そもそも部活には入っておらずインターハイなどの実績もなかったため、一般受験で入学しました。ただ、レースで優勝したこともあったので「強い大学に入りさえすれば世界を目指せるんじゃないか」と本気で思っていました。今思えば調子に乗っていましたね(笑)。
しかし、推薦で自転車競技部に入る人は、実力のある人ばかり。インターハイでいうと優勝、もしくは2位ぐらいの成績が必要です。3位でも厳しいんじゃないでしょうか。草レースしか出場したことがない自分は全く歯が立たず、朝練すらついていけない状態。部員が宇宙人に見えるほどの強さでしたね。ちなみに、同級生は石橋学選手、1個上に山本元喜選手、1個下には橋本英也選手がいました。濃いでしょう(笑)。
─その後、どのようなきっかけでメカニックを目指したのでしょうか。
1年生のときにスタッフとして帯同した「ツール・ド・北海道」がきっかけです。レースに出場できない部員は、スタッフとしてさまざまなレースについていくのが部の通例ですが、鹿児島からみて北海道は遠方です。「誰がスタッフとして行くのか? 運転は誰がするのか」と議論になりました。しかし、そこで車好きが生かされました。「えっ、全然運転しますよ」と(笑)。すぐに立候補し、北海道に連れて行ってもらえることになりました。
多くのプロレーサーが出場するツール・ド・北海道の現場は、衝撃的でした。選手を支える人の多さに驚いたんです。学生はレースで使った自転車を自分で拭いたり、洗車したりするのが当たり前ですが、プロ選手はレース後、自転車をメカニックに任せます。そんなメカニックが夜遅くまで洗車をしたり、整備をしたりする姿に魅了されたんです。
「ツール・ド・北海道」から帰った後すぐに、メカニックになることを監督に志願しました。メカニックの技術は、自転車ショップで勉強をさせてもらい習得しました。
─その後、NIPPOの専属メカニックになり、イタリアに渡ることになります。
Facebookでメカニック関連のことを発信していたところ、チームから目をつけていただきました。大学3年生のときに帯同したツール・ド・北海道で、当時NIPPOの監督だった大門宏さんから「よかったら研修生としてイタリアにきてメカニックをしてみないか」と声をかけていただき、イタリアに渡ることになりました。
─イタリアと日本で、メカニックの仕事に違いはありましたか。
イタリアでは、メカニックの仕事が世間一般に浸透しています。メカニックが珍しい職業ではなく「あの子のお父さんはメカニックなんだよ」といった会話が日常的に交わされることに驚きました。また、仕事量も多いですね。しかも、仕事時間のほとんどが運転や積み込み、整備などレースの準備。意外かもしれませんが、レース中のメカニックの仕事は、全体で考えるとほんのわずかです。
ちなみに、そもそも運転ができないと話になりませんが、運転好きはイタリアでも生きましたね(笑)。
─求められることに違いはありますか?
そもそもチームの規模が違います。イタリアでは100台以上の自転車を管理・把握しなければなりません。また、必ずしもパーツが潤沢にあるとは限らない状況で、どの点を妥協するかも大事なポイントです。レース中、限られた時間の中で100%直すのは、到底無理。どこまでの妥協ならば選手が許容してくれ、かつ安全に走れるか落としどころを探っていました。
日本人は100%を目指しがちですが、すべてを完璧にしようとすると身体も持たず最終的にはミスに繋がってしまいます。イタリア人は古くから自転車競技に関わっていることもあってか、上手に妥協点を見つけて仕事をこなしている印象でした。
─NIPPOで活動していたころから、洗車を生業にしようと考えられていたのでしょうか。
NIIPOでメカニックをはじめた頃は、洗車が商売になるとは全く思っておらず、ただただ毎日洗車をしていました。しかし洗車は、メカニックの卵が最初に叩き込まれるほどの重要な技術。洗車さえできれば重宝されます。年々、洗車の重要性をひしひしと感じていました。
具体的に今の活動につながる取り組みをはじめたのは、NIPPOを退団する2~3年前です。
シーズン終了から次のシーズンに入るまでの約2か月のオフシーズン、何かしたいと考えた時に思いついたのが、「洗車」でした。
当時、拠点を置いていた鹿児島の自転車ショップをまわり「洗車のイベントを開きませんか」と声を掛けイベントを開催しました。お客さんは多くても3人でしたがとてもやりがいがありました。というのも、洗車をするだけで「なぜこれほど綺麗になるんだ」「信じられない」「洗ってもらえるのが気持ちいい」とお客さんがとても驚いてくれるんです。想像を超えた反応をみていると、こちらも嬉しくなりました。
─ラバッジョの原点ですね。
その後、日本に帰るタイミングで「洗車をすることで多くの人に喜ばれるのではないか」「洗車を生業にできれば」と具体的に考えるようになりました。
周囲からは自転車ショップの経営を勧められましたが、既に数多くのあるショップとライバル関係になるのではなく、協力するような関係になりたいと思ったんです。
ちなみに今では、「自転車を洗車してほしい」と自らの自転車を持ち込むショップの店長もいますよ(笑)。
─洗車のメリットを教えてください。
トラブルを早めに見つけられることです。肌感覚ですが、持ち込まれる自転車の10台中7台は大なり小なりトラブルを抱えています。車は、オイル交換などのメンテナンスをすることで、修理費用を安く抑え、結果的に長く乗ることができますよね。自転車も同じで、スプロケットが削れる前にチェーンを交換するなど、早めに手を打つことが長持ちするポイントです。
洗車専門店であるラバッジョは、不具合を伝えやすい立場でもあります。メンテナンスも手掛けていると「部品を売りたいだけではないの?」と感じる方もいるでしょう(笑)。チェックシートだけ作成し、お客さんには「好きな自転車ショップに行ってください」と伝えています。もちろん、希望があればショップの紹介も行っています。
─今後の夢を教えてください。
洗車屋としての目標は、軽快車に乗る一般ユーザーにも洗車の習慣を広めることです。軽快車も洗車をすることで、早めに不具合を見つけることができますからね。それに、日本に自転車文化を普及させたのは、間違いなく一般ユーザーです。
また、本場を経験した立場上、日本の自転車業界を盛り上げたいと強く思っています。その第一歩として、メカニックがさまざまなメーカーの機材を使って自転車を組み上げるイベントを開催したいです。今は純正の自転車が売られていることがほとんどですが、オーダーメイドで自転車が作れることを多くの人に知ってもらいたいです。それぞれの自転車に個性が出ますし、個人店が生き残る術にもなると思います。
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